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構想しもきた
〜下北半島の未来を考える〜
shimokita vision

下北150年の軌跡
【第3回】下北・上北郡の誕生と経済格差
郡区町村編成と明治の大合併 ~ 下北郡・上北郡の誕生 ~ 1878年(明治11年)、地方を町、村、郡、県に区分するという「郡区町村編成法」が施行され、現在の地方自治の枠組みが出来上がります。町や村にはもと名主や庄屋といった有力者から選ばれた戸長(こちょう)が置かれ、、その町や村を束ねる郡には国が人選した郡長が置かれました。さらに郡を束ねる県には中央政府から派遣された県令(知事)が着任しました。そして全国の県は政府の内務省が統括しここに中央集権体制が整ったのです。この体制は太平洋戦争が終わるまでの約70年間続きました。 郡区町村編成法が施行される前の青森県は、津軽郡、三戸郡、二戸郡、そして下北半島を含む北郡の4つから構成されていました。この編成法によって津軽郡は、東、北、中、南に分かれ、また北郡は下北と上北の2つに分割されて下北郡と上北郡が誕生しました。「下」と「上」の違いは、天皇が住む東京により近い方を「上」、遠い方を「下」と称したようです。なお二戸郡は岩手県に編入されました。当時の下北郡の人口は2万5千人という記録があり(青森県全体で
【第2回】下北開発の兆しと会津人の貢献
1868年(明治元年)9月(旧暦)、戊辰戦争(新政府軍と旧幕府軍との戦い)は会津藩と盛岡藩の降伏によって終わりました(函館戦争は翌年5月まで続く)。旧幕府軍として戦い敗れた会津藩は23万石から3万石に減らされ、領地は会津から二戸郡(金田一、二戸)、三戸郡(五戸、三戸、田子)、北郡(下北半島)に移されました。藩庁は当初、三戸に置かれので三戸藩と呼ばれましたが、その後田名部に移され斗南(となみ)藩(はん)と呼ばれるようになりました。“斗南”とは北斗七星の南という意味で、北の大地にあっても南(中央)をめざして堂々と生きようとする会津の人々の心を表していると言われています。藩士と家族の約1万7千人が会津を離れて北辺の地に移住し領内の各地に散っていきました。下北半島では田名部や大湊を中心に、大間、佐井、野辺地など半島全体に移住しました。会津は寒く雪深い土地ながら米や作物がたくさん採れて豊かでしたが、下北半島は一段と厳しい寒さと“やませ”による作物の育ちの悪さにより、多くの藩士たちが飢えと病気で亡くなったと言われています。3万石では多くの藩士や家族を養うには
【第1回】連載を始めるにあたり~国策と歩んだ150年~
イギリスの歴史学者エドワード・ハレット・カー(1892~1982年)はその著書「歴史とは何か」(1961年刊、清水幾太郎訳)の中で、“歴史は現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない”と語っています。過去の出来事から教訓を得て現代に活かす役割が歴史であるということで、歴史は繰り返すと言われますが、歴史を良く学ぶところから未来が開けるものと言えるのでしょう。 この連載企画では、幕藩体制が終わりを告げ、日本が近代国家として形づくられていく明治維新から現在までのおおよそ150年間に、本州最北端の下北半島が地域開発史においてどのような歴史をたどったきたのかを俯瞰し大きな流れをわかりやすく紹介します。学術的なことは避け、一般の方が下北半島が明治、大正、昭和、そして現在まで歩んできた開発の軌跡を身近に感じ、そこから未来につながるヒントを見出していただくことを願っています。 第1回は、150年をざっと駆け足で触れて、2回目以降から話を掘り下げて行く予定です。 下北半島は本州最北の半島の
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