【第3回】下北・上北郡の誕生と経済格差
更新日:8月29日
郡区町村編成と明治の大合併 ~ 下北郡・上北郡の誕生 ~
1878年(明治11年)、地方を町、村、郡、県に区分するという「郡区町村編成法」が施行され、現在の地方自治の枠組みが出来上がります。町や村にはもと名主や庄屋といった有力者から選ばれた戸長(こちょう)が置かれ、、その町や村を束ねる郡には国が人選した郡長が置かれました。さらに郡を束ねる県には中央政府から派遣された県令(知事)が着任しました。そして全国の県は政府の内務省が統括しここに中央集権体制が整ったのです。この体制は太平洋戦争が終わるまでの約70年間続きました。
郡区町村編成法が施行される前の青森県は、津軽郡、三戸郡、二戸郡、そして下北半島を含む北郡の4つから構成されていました。この編成法によって津軽郡は、東、北、中、南に分かれ、また北郡は下北と上北の2つに分割されて下北郡と上北郡が誕生しました。「下」と「上」の違いは、天皇が住む東京により近い方を「上」、遠い方を「下」と称したようです。なお二戸郡は岩手県に編入されました。当時の下北郡の人口は2万5千人という記録があり(青森県全体では48万人)、郡役所は田名部に置かれました。
10年後の1888年(明治21年)に市制・町村制が公布され「明治の大合併」が行われました。この時、青森県では弘前が唯一の市となり、ほかに5町(青森町、八戸町、黒石町、鯵ヶ沢町、三戸町)および165村が生まれました。下北郡は田名部、大湊、川内、脇野沢、大畑、風間浦、大奥(後の大間)、佐井、東通の9つの村が誕生しました。大奥は大間と奥戸(おこっぺ)のそれぞれの頭文字をとったもので、後に大間となります。
その後、1899年(明治32年)に田名部村が町制を、1917年(大正6年)に川内村が町制を、1928年(昭和3年)に大湊村が町制をそれぞれ敷きます。そして1959年(昭和34年)に田名部町と大湊町が合併して大湊田名部市になり翌60年、むつ市が誕生します。2005年(平成17年)むつ市は隣接の大畑町、脇野沢村を編入し現在の下北半島の行政区域が成立します。
地租改正と経済格差
郡区町村編成法に先立つ1873年(明治6年)政府は、地租改正条例を公布します。この条例は明治政府がつくった最初の税制で、土地所有者から税金を納めさせることで国の財政の安定化を図り近代化事業の資金を確保する狙いがありました。それまでは農民の米の物納によって財政が成り立っていましたが(それまで商工業者は税金を納めていなかった)、この条例によって土地の所有者を確定し土地に一定の税率を賦課してすべての国民から税金(金納)を納めさせることにしました(寺社は除く)。しかし、地価と税率は一方的に政府が決めたので全国的に反対運動が起きてしまい、明治天皇が税率軽減の勅諭を出して反対を収めたという歴史があります。米による物納しか知らなかった農民にとって現金による金納は青天の霹靂で、農村社会に大きな影響をもたらしました。一面では米の物納から金納になったことで、長年の米づくりの呪縛から解き放たれ、金になる色々な作物(換金作物)が自由につくれるようになりました。また国民の土地に対する私的所有権の考えを醸成するきっかけにもなりました。しかし金納ができない農民も生まれ、彼らは自分の土地を売って金にして税金を納めざるをえません。その結果、自作農から小作人に転落するなど、「土地をもつ者」と「もたざる者」の経済格差が生じ始めました。農家でない者が、自作農の手放した農地を買い集めて大地主が生まれ富裕層を形成しました。彼らは高額納税者として特権階級となり貴族院議員になる者も誕生しました。 下北半島はやませが強く作物の出来が良くありませんでしたので、江戸時代の盛岡藩は米の出来具合によって年貢の多寡を調整していました。米が出来ないところでは馬年貢(米の年貢の代わりに馬の飼育)もありました。しかし、地租改正により金納になったことで所有地に一定の税率がかけられ、滞納や未納は許されなくなって生活はより厳しくなりました。そうした中にあって、野辺地の豪商 野村治三郎のような高額納税者が貴族院議員になり、明治天皇が東北に巡幸した際には野村の自宅(離れ)に宿泊したほど繁栄しました。
農民たちは維新によって生活が楽になると期待していましたが、地租改正によって大地主たる富める者と没落した小作農の貧しい者とが生まれたのです。
(注)貴族院議員は、帝国議会を構成した二院のうち上院で、皇族や華族のほか高額納税者が非公選で選ばれた。下院は衆議院

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