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【第2回】下北開発の兆しと会津人の貢献

  • 執筆者の写真: 構想しもきた
    構想しもきた
  • 2 日前
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更新日:1 日前

 1868年(明治元年)9月(旧暦)、戊辰戦争(新政府軍と旧幕府軍との戦い)は会津藩と盛岡藩の降伏によって終わりました(函館戦争は翌年5月まで続く)。旧幕府軍として戦い敗れた会津藩は23万石から3万石に減らされ、領地は会津から二戸郡(金田一、二戸)、三戸郡(五戸、三戸、田子)、北郡(下北半島)に移されました。藩庁は当初、三戸に置かれので三戸藩と呼ばれましたが、その後田名部に移され斗南(となみ)藩(はん)と呼ばれるようになりました。“斗南”とは北斗七星の南という意味で、北の大地にあっても南(中央)をめざして堂々と生きようとする会津の人々の心を表していると言われています。藩士と家族の約1万7千人が会津を離れて北辺の地に移住し領内の各地に散っていきました。下北半島では田名部や大湊を中心に、大間、佐井、野辺地など半島全体に移住しました。会津は寒く雪深い土地ながら米や作物がたくさん採れて豊かでしたが、下北半島は一段と厳しい寒さと“やませ”による作物の育ちの悪さにより、多くの藩士たちが飢えと病気で亡くなったと言われています。3万石では多くの藩士や家族を養うにはあまりに少ない石高で流刑と同様の処遇でした。それでも会津の人は新天地で開拓に励み地元に根付くために必死で頑張りました。幼少期に会津から大湊に移住し辛酸をなめながら後に陸軍大将に昇り詰めた柴五郎は、小さい頃の大湊での生活を振り返り、次のように記録を残しています。「落城後、俘虜(ふりょ)となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)がなく 耕すに鍬がなく、まことに乞食にも劣る有様にて 草の根を噛み 氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえて辛酸の年月 いつしか歴史の流れに消え失せて いまは知る人もまれとなれり」(ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 中公新書 石光真人編著より)。戦いに負けて着の身着のまま下北半島に流されてからは、毎日の食料にも困り、寝る布団もなく、農具もなく、乞食のような生活だった、草の根を食べ、冬は氷点下20度の寒さにむしろを張ってしのぐ辛酸の毎日だった、と書き綴っているのです。会津の人たちは、戊辰戦争で負けてすべてを失ったので、生きるためにはなんでもやるしかないと、新政府軍への恨みや憎しみなどの反骨精神(ルサンチマン)が力となって頑張ったのだろうと思います。


柴五郎
柴五郎

 会津藩の祖は、徳川2代将軍秀忠の異母弟の保科(ほしな)正之(まさゆき)です。戊辰戦争で新政府軍と徹底的に戦ったのも徳川家への忠誠心があったからです。会津藩は教育熱心で人材育成に努めた藩として名高く、下北に移住してからも藩校「日新館」を田名部の地に復活させ、極貧の中でも子弟たちの勉学を忘れることがなく、また地元の人たちにも藩校を開放し教育を施したと言われています。この勤勉実直と質実剛健の精神は会津魂と言われました。このため下北半島に移住した後も、多くの優れた人材を輩出しました。明治の初め、下北半島にはまだ読み書きのできる人は少なかったそうで、地元の人たちは教育を積んだ会津の人たちを敬い教養を授かりました。会津藩の移住は下北半島の教育向上に大きく貢献したと言われています。※会津人のみすぼらしい生活を見て馬鹿にした地元民がいたことも事実です。

 さきほど触れた柴五郎のほかに下北半島から輩出した会津人として、家老だった山川浩は陸軍中将に、その弟の健二郎は東京帝国大学の総長に出世しています。またその妹の捨(すて)松(まつ)は戊辰戦争時に敵だった薩摩藩出身の陸軍大将大山巌(いわお)と結婚し、その美貌と知性から“鹿鳴館(ろくめいかん)の華(はな)”と呼ばれ外交の場で活躍しました。また藩の小参事(県の課長級)だった広沢安(やす)任(とう)は、三沢に日本初の外国機械を導入した洋式牧場をつくり畜産の振興や会津の人たちの仕事づくりに努めました。広沢とともに牧場経営にあたった会津藩出身の北村豊三の曽孫が、のちに青森県知事を4期務め「むつ小川原開発」に力を入れた北村正(まさ)哉(や)氏で、彼には会津の血と魂が流れていました。

 1871年(明治4年)に藩は廃止され県が置かれることになり(廃藩置県)、斗南県となりました。藩は解体され下北半島に移住してきた会津の人たちは藩からの禄(給金)を失うことになり、自分で生計を立てなければならなくなりました。それができない人たちは

藩の束縛がなくなった(藩士ではなくなった)ので、生活の糧を求めて下北半島を離れ東京など別の土地に移っていきました。そうした中でも下北半島に残って根付いた人たちも多く、役人や町村長、教員などの公職に就きました。青森小学校(現在の青森市立長島小学校)の教員の半数以上が会津出身者だった時期もあったと記録にあります。ほかに1873年(明治6年)当時、下北半島の公立学校のうち、田名部、大畑、大間、川内の小学校の校長や教員の多くは会津出身者だったそうです。このように下北半島の教育の基礎は会津人がいたからこそできたことで、その後の下北地域の発展の原動力になったことは確かだと言えます。

 ちなみに、下北半島で会津の血を引いた著名人には、2代目八戸市長の神田重雄(1874~1947年)氏、初代三沢市長の林静(1890~1970年)氏、むつ市長の菊池渙治(1919~2003年)氏や杉山粛(まさし)(1936~2007年)氏、三沢市長の鈴木重(しげ)令(よし)(1940~2007年)氏がおり、いずれも下北の振興のために尽力された方々です。

 

 斗南藩時代はわずか2年ほどでしたが、会津の人たちは何とか新天地を振興し生き抜こうと模索しました。原野を開墾し農業振興やまちづくりにも取り組みました。武士の時代は終わりこれからは商業の時代だと考え、田名部に港を整備し商業都市づくりをめざす動きもありました。広沢安任は、太平洋と陸奥湾を結ぶ運河計画を政府に提出するなど大胆な発想も打ち出しました。尻屋崎沖は昔から航海の難所で海難事故が多発していたことから、広沢は実際に測量を行って六ケ所村の湖沼を経由して太平洋と陸奥湾を運河でつなぐ計画を青森県知事とともに政府に提出したのです(1889年、明治22年)。この運河計画は広沢の死によって、また東京と青森が東北線で結ばれたことで立ち消えになりました。下北半島に運河を開削する計画は盛岡藩の時代からもあったようで、時代が下ってからも、いく度か運河をつくる計画は浮かんでは消えました。時代が変わっても、将来、下北運河の必要性が再認識される時がくるかもしれません。下北半島と運河計画は深い因縁があるようです。

 このように教育熱心で勤勉実直・質実剛健の気風をもった会津の人たちが下北半島に移り住み、行政、教育、産業振興、まちづくりなど様々な方面で大きな貢献をしたことは間違いありません。それまでの貧しい北辺の地であった下北に、その後の地域開発を進めるための土壌をつくり種を蒔くなどの素地をつくった功績は大きいものがあります。将来に向けても会津魂は脈々と下北の地に息づいていくことでしょうし、それがあるかぎり下北半島は、へこたれることなく逞しく生き抜いていくと信じています。


広沢安任
広沢安任

 
 
 

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