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【第4回】下北に官有林(国有林)の誕生

10月6日
読了時間: 4分

更新日:16 時間前

  青森は軒下まで国有林

 

 東奥日報社が「青森は軒下まで国有林」と批判的に言わしめた原点は、1876年(明治9年)から行われた政府による森林原野の官民有区分です。地租改正によって土地の所有者は全国的にほぼ確定されましたが、共有地や入会地、所有者が証明できないなど不明瞭な森林や原野も多かったのです。政府はこうした曖昧な土地を国の所有にするか、個人・民間にするか区分を行いました。これが官民有区分事業です。政府は、下北半島の森林がヒバ(ヒノキアスナロ)という経済価値の高いことに目をつけて、その大半を国が所有する官有林(国有林)にしてしまいました。それ以外の財産価値がない山林原野は民間の所有とされました。現在でも北海道を除けば、青森は全国一の国有林率ですが、その原点はここにあります。官有林になったことで住民たちの立ち入りは厳しく禁止されました。それまで地元の人々は一定の規則はあるものの、山に入って木材や薪、山菜やキノコ、獣などを獲り金に換えて生計を立てていました。しかし、それができなくなって生活に困窮するようになりました。特にヒバは高価な木材でしたので「一等官林」に指定され極めて厳重に政府の管理下に置かれました。ちなみに官有林には一等から三等まであり、一等は水源の涵養、洪水防止、魚付林、木材保護を持続的に行う官有林で、二等は定義が曖昧でしたが、三等は民間払下げが可能な官有林でした。厳しい国の管理下で、地域の人々は生活の糧を得ようと官有林に立ち入ってヒバを盗伐したとして多くの逮捕者が出たという記録が残っています(青森県の検挙者の8割が官有林の木材を盗伐した者)。当時の第7代県令山田秀典は政府から派遣された役人にもかかわらず、地元の実情を理解して地域に寄り添い、検挙された人民を哀れに思い、いかに官民有区分制度が地域にとって弊害をもたらすかを内務省にせつせつと説明し、検挙者の罪の軽減のために直談判したと記録にあります。

 生活の糧を奪われた地域の人々は、生活のためにはなんとか活路を見出さなければなりません。そこで男たちは当時、ニシン漁で賑わっていた北海道の小樽や余市へ漁業の出稼ぎに行くようになり、「やん衆」(ニシン漁で一攫千金を狙って全国から集まった男たちを指す)と呼ばれました。また下北半島での生活に見切りをつけて北海道に移住した者も少なくありません。

 

官有林の払下げ運動 

 

 官有林区分に対する反対運動は全国に及びましたが、特に官有林の割合が高かった青森・下北地域では強く、明治天皇の二度目の東北巡幸の際(1881年、明治14年)、天皇の名代として大湊を訪問した北白川宮(戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の盟主であった輪王寺宮)に対して、地元の有志たちは官有林を地域に開放してほしいと歎願しましたが、聞き入れられなかった歴史があります(むつ市史)。天皇に直訴するほど困窮していたのです。その後も官有林解放の動きは全国に広がり、それに対して政府は1899年(明治32年)に「国有土地森林原野下戻(かれい)法」を制定しました。この結果、下戻願いは全国に広がりましたが、特に青森からの下戻申請は全国でもっとも多かったのです。しかし、民間に払い下げられたのはわずか3%にしかすぎず、ほとんどは却下されました。しかしながら下北での強い反対の動きが法律の制定に結びついたことは確かで、下北地域の反骨精神、粘り強さ、忍耐力を感じざるを得ません。これも下北半島に会津の魂が息づいていたからではないかと思われます。

 青森県の官有林開放運動の功労者として、白鳥鴻章(しらとりこうしょう、1864~1904)を忘れることはできません。白鳥は現在の青森市荒川に庄屋の家系として生まれ、荒川村長を経て県会議員になり、明治37年(1904年)に、政府を相手に地元官有林の払下げについて訴訟を起こしました(政府が誤って民間所有であるべき森林を官有林へ編入してしまったことが原因)。裁判の結果、政府に勝訴したのです。政府の権限が絶対的な明治の世で、訴訟で政府に勝つことは例外中の例外でした。白鳥は青森県だけの問題ではなく全国的な森林開放の問題として世に提起したのです。白鳥の功績は全国的に高く評価され、青森市荒川にある下湯ダム(しもゆダム)に顕彰碑、母校の荒川小学校には彼の胸像が建立されています。


 
 
 

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