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明治期の銀行建築や古銭、青森の港町を描いた日本の金融制度の歴史記事のアイキャッチ画像

【第3回】明治期の日本の金融制度の出発と青森県(2回シリーズ)

10月9日
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第2回 第五十九国立銀行の設立 


大道寺繁禎の貢献

 明治9年、国立銀行条例の改正後、大蔵卿大隈重信と内務卿大久保利通は、全国に国立銀行の設立を促す通達を出しました。県令山田秀典はそれを受けて大道寺はじめ旧弘前藩士族や商人たちと協議をしましたが、士族たちは設立に強い意欲をもったものの商人は消極的だったようです。士族らは金禄公債証書をもとに銀行に出資することで生計を立てようとしたことが積極的な要因だったのです。

 しかし青森県にとって銀行設立は初めてのことで、しかも青森経済の近代化を支える銀行が「武士の商法」になって失敗したらもともこうもない、ということで、大道寺は渋沢栄一と相談します。大道寺は当初、青森県独自の国立銀行をつくるのではなく、第一国立銀行の青森支店を設置してもらう考えだったようですが、渋沢はそのような安易なことに賛同はせず、あくまで青森独自で設立することを薦めます。大道寺の気持ちは旧弘前藩士族の救済のための銀行設立という狙いが色濃かったようですが、渋沢はそれを見抜いたのか、銀行設立は士族救済のためではなく産業経済の近代化であるという銀行本来のするべき姿を説いたのです。大道寺はこの渋沢の理念を理解し青森に独立した銀行を設立することに方針転換します。

 明治10年、大道寺など7人で銀行設立の発起人会がつくられましたが、全員が旧弘前藩士族でした。大道寺は青森町の商人たちにも出資を呼びかけましたが、賛同するものはごく少数だったようです。すでに青森町に出張所を設けていた三井銀行と深い関係ができていたことも一因かと思われます。結局、資本金20万円(一株50円 4000株)を発行しましたが、株主697名のうち旧弘前藩士族659名が占め、商人など平民はわずか38名でした。商人の中には野辺地村の豪商野村治三郎がいました。

 明治11年(1878年)1月、発起人会は大蔵卿大隈重信あてに「国立銀行創立願」を提出し、その年3月には設立の認可が下りました。認可状には第五十九国立銀行と名乗るべきこと、と記されていました。ここに第五十九国立銀行が青森に創設されたのです。五十九という数字は、創立が認可された順番と推測されます。大道寺や県令山田秀典はじめ士族たち、そして渋沢栄一の尽力で青森における近代的な金融体制が整ったのです。ちなみに、東北では、福島(第六)、会津若松(第三十一)、秋田(第四十八)に次ぐ4番目の国立銀行でした。

 認可直後、渋沢栄一は大道寺に対して、第五十九国立銀行が近代的な金融機関として発展していくには、業務の拠点を米穀販売を行う最も都合の良い町に置くべきだとの書面を送っています。渋沢は暗に、士族救済のため弘前に拠点を置くのではなく、県庁所在地であり、北海道への渡航地として、また米の移出地として商業がにぎわい始めた青森町に本店を置くように薦めていたのです。本店を弘前に考えていた大道寺は、渋沢の助言を理想と現実との乖離があるとして拒み、弘前町に本店、青森町に支店を置くことに決めました。初代頭取には大道寺繫禎が互選で選任されました。その後、鰺ヶ沢、黒石、五所川原、田名部にも出張所を設けました。これらの土地は物資が集まる物流の拠点で、田名部村は木材や海産物の積み出し港として下北半島の交易拠点だったことから国立銀行が設けられたのです。

 他方で、八戸においても多くの旧八戸藩士族がおり、国立銀行を設立するうごきも見られました。明治12年に士族と八戸商人たちが共同して設立したのが第百五十国立銀行です。当行の詳細については資料がなく不明ですが、国立銀行が第百五十三(京都)で打ち止めになっていますので、国立銀行の中ではかなり後発です。明治29年には営業不振から終焉を迎え短命に終わりました。

 

明治初期の頃の大道寺繁禎
明治初期の頃の大道寺繁禎

 

もと第五十九国立銀行本店(弘前市)、現在はカフェに利用
もと第五十九国立銀行本店(弘前市)、現在はカフェに利用

 

株式会社第五十九銀行の誕生

 

 明治16年(1883年)に国立銀行条例は改正され、開業認可から満20年後には普通銀行に転換することが義務付けられました。そのため明治30年前後には全国のすべての国立銀行は普通銀行に転身しなければならなくなりました。第五十九国立銀行も明治30年(1897年)に国立銀行から株式会社第五十九銀行へ生まれ変わりました。頭取は大道寺から菊池幸八(旧弘前藩勘定奉行)に変わり、本店は弘前市に置いたまま、青森町、鰺ヶ沢村、黒石村、五所川原村、田名部村に支店を置き、1本店5支店体制で新たに出発しました。

 下北半島では明治39年(1906年)、田名部町に㈱前橋貯蓄銀行(翌年下北貯蓄銀行へ改称)が設立され、大正11年(1922年)に下北銀行となり健全経営がなされていました。頭取は地域の有力者である佐賀清太郎で、佐賀は下風呂生まれで父とともに布海苔の投石養殖を完成させた人物で、対岸の函館銀行の株主でもありました。彼は実業家であり金融マンでもありました。しかしながら小規模経営に不安を感じたのか第五十九銀行に合併を申し出て、昭和4年(1929年)に吸収合併されました。

 その後、日本が戦時体制に入った昭和11年(1936年)に、政府は「一県一行主義」を打ち出し青森県内でも普通銀行の合併が進み、昭和18年(1943年)4月に第五十九銀行、青森銀行、八戸銀行、津軽銀行、板柳銀行の5行が合併しました。その結果、新生の青森銀行が誕生し、本店は青森市(第五十九国立銀行青森支店、現在休館中の青森県立郷土博物館)に置くことで出発することになったのです。

 

 (参考)

 ・「れじおん叢書大第11集」2019年5月発行

  明治前期から昭和前期における青森県金融・経済史

    ~青森銀行の歩みからみた~

 ・風間浦村ホームページ


山田秀典(1836~1882)

 旧熊本藩士 明治9年に初代青森県令として着任(1876~1882) 山田が着任するまでの6人はいずれも大参事、権令、参事の位だったが、山田秀典が“県令”として正式に就任 青森県の産業経済振興の礎を築いた。農作物の新品種の導入、先進地からの産業技術の導入、牛牧場開設、旧弘前藩士族のための資金調達、ブランデー製造、岩木川改修、合浦公園の造成、第五十九国立銀行の設立支援など  

東京出張中に県令のまま急死

(参考)

季刊「あおもりのき」第12号(春号)2023年4月20日発行 県令山田秀典特集 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

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